今日のお話しは、少し手描きパースから離れてみましょう。
今、こうしてこのブログを読んでいただいておりますが、文章ですので「句読点」がありますね。
ここ最近、LINEでの「句読点の有無」について、若い世代では「句読点があると怒っているように感じる。」等といった印象があるということなんです。
文字を打っているのだから句読点があって当然、いやいや怖いよ○とかあると・・・、など様々な意見や感想などがあるようです。
ビジネス上で使用するメールでは、若い世代であっても句読点は付けるとのこと。
まあ当然ですよね。その辺は、若い世代であってもしっかりと考えて対応できているわけです。
気の知れた友人などでのLINE使用では、感覚的に「会話(チャット)するように」使うのがそもそもなのですね。
それはそれでよいと思います。
が、ちょっと気になったことがあるんです。
会話形式ではあっても、やはり文字情報なので、長文になるとどうしても句読点が必要になるのではないかな?と。
短文(「オッケー」とか「了解」など)で、会話の流れで打ち込みやり取りしている分には影響はなさそうです。
しかし、ちょっとした長文となると句読点がないと息が詰まる感覚が個人的には感じてしまうんですね(笑。
句読点というのは、文章を伝える上で必要なツールなのですが、もう一方では「読み手の呼吸のタイミング」という役割もあるのではないか?ということなんです。
「今の社会生活をする上で、呼吸ができていないのではないのか?」と、常々思っているのです。
私も好きで聞いていますが、例えばYOASOBIのようにブレスするタイミングが難しい歌が結構あるが流行っている。
人とのコミュニケーションや距離感が分からないという人が増えている。
陰キャだのコミュ障などといった造語がネット界隈で横行している。
挙げればキリがないほど、今の社会生活に於いて「人と人」「人と社会」「人とモノ」などのやり取りができにくくなっているのでしょう。
つまりは、”息が詰まる”思いをしている。それは、そもそも”呼吸できていない”生活を送っているのではないか?ということなんです。
人が生きてゆく上で呼吸をすることは、必要最低限のことであり、最も重要な肉体活動です。
呼吸の基本は、先ずは「吐く」、そして「吸う」ことです。
体内の二酸化炭素を出して、新鮮な酸素を取り入れる。こうして、細胞に酸素を取り入れ、熱を作り、肉体を動かす。
動く身体で社会生活を送る、コミュニケーションを取る、余裕が生まれ自分のタイミングで物事を行う、ということができるわけです。
ちょっと気にかけてみてください。
背伸びをして、先ずは大きく息を吐いてみましょう。その後は自然に息(空気)を吸うことができます。深呼吸です。
3回ゆっくりと行うと、身体は軽くなり頭もクリアになります。気持ちに余裕もでてきます。ちょっと前向きにまります。笑顔になってそうです。フォットワークも軽くなっていることでしょう。
コミュニケーションの始まりです!