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もう少し、「食」について突っ込んで考えてみたいと思います。
私達が、日々三度三度(中には1日4~5食という方もいらっしゃるかと・・・)行っている”食事”。 元々は、「1日2食」だったらしいですね。そんな話を聞いたことがあります。 「え~っ?1日2食?無理ーーー!」、なんて思う方々も多いことでしょう。 ご存じの方も多いでしょうが、現代の作られる食物が持つ”栄養素”は、3~40年前の食物と比べますととても栄養素が少なくなっているということらしく、中には栄養素が2分の1なんていうものもあるそうです。 栄養豊富な作物を摂取すれば、人は1日2食で充分こと足りるようにできているのでしょうね。 また、カロリー摂取過多以上に食事の”量”も実は大変大切なことのようです。 内臓にとって、食物を消化・吸収し肉体のエネルギーとして変換し命を維持するといった「サイクル(循環)」は、”食事から次の食事まで12時間かかる”のだそうです。 朝7時に食事をしたら、夜の食事も7時、といったサイクルが内臓にとってはとても良いのだそうです。 逆に言えば、それ以上の食事行為が内臓への負荷をかけていることになる、ということですね。 そういった意味において、1日2食は理に適っていると言えるようです。 別な観点では、私達日本人の主食である「お米」。 昔、”白米”で食べていたのは貴族が主で、一般は”玄米”を食していました。 現代では、「玄米を食べています。」とよく聞くようになりましたが、白米の食べ方に慣れている現代人が玄米を食べても、その栄養素は100%活かされていないようです。 玄米を”まともに”食べるには、丈夫な歯と頑丈な顎が必要なのです。 どうゆうことかと申しますと、玄米を食べるには「噛む回数が一口50回必要」だということなんですね。 50回噛むことにより、充分で豊富な唾液を含んで噛みつぶされた玄米は、消化分解吸収をする内臓にとっては負荷がなくスムーズにそのハタラキを行えるのだそうです。 また、50回噛むことにより「満腹中枢神経」が働き、暴食することなく食事を終えることができるということです。 こうして見てゆきますと、「何故に私達は食事をするのか?」という根本的な疑問が湧きあがります。 (ここからは、私自身の勝手な独断と偏見による個人的なツブヤキですが・・・)現代人の食意識は、「肉体のための食事」に捉われすぎていて大切なものが視野に入っていないように思えてなりません。 「生命」という遠大で尊く気高いものでさえ、「食」の前では単なる「肉体生命」と陥り、肉体にとっての食事といった観点を基点として作物を捉え作っているように見えます。 言い換えますと、先に形があって中身は後付けかもしくは何もない、といったことです。 ここに警鐘を鳴らし、「食育」といった概念が生まれ実践している方々がいらっしゃいますが、まだまだ一般的な”常識”には到達していないのが現状のようです。 こうした現代の「食の構図」は、実は私達のモノ作りの構図に大変酷似しているように思えてなりません。 人間側での勝手気ままな“一方的論理”によってモノ作りを進めた結果、今まさに地球は”病い”の真っ只中です。 同時に、私達人間も肉体的病いに侵され、精神的にも侵され始めています。 これは、結果論ではなく道理でしょう。そう思います。 私達人間が、自ら病いを作り出し自らを侵した。これが道理でなくて一体何なのでしょうか? 健全で正しい食事ができてこその生命だと思います。 健全な精神が、健全な肉体によって形に現わされ物事が実現し、健全な世界が建ち上がる・・・。 この行動を支えるのが、健全な食事なんですね。 健全な精神が、健全な食事を欲し健全な肉体を形作り維持してゆく・・・。 これが、元々の正しいサイクル(循環)ではなかったのか、と思います。 「手書きスケッチパース」は、恐ろしい事にこの健全さがはっきりと画面に出てしまいます。 爽快な気分の線、悩んでいる線、心ここにあらずの線、何も提案するものもなくとにかく描いてみた線、熱のこもった線、信頼を得て描いた線・・・・・、などなど。 意識・無意識に拘わらず、はっきりと表現されてしまいます。 そういった意味では、いつでも精神が健全であり肉体も健全である状態でスケッチパースを描きたいものです。 そのひとつのヒントが、「食を省みる」ことなんですね。 それも、精神から肉体そして精神へといった大きなサイクル(循環)と、肉体の中での小サイクル(循環)を省みることだと思います。 ”省みる”ということは、白米から玄米に変えることではなく、1日2食に食事の回数を変えることでもありません。 形を変えることではなく、「本来の何かにいかに気づくことができるのか?」が大切なことのように思えるのです。 一事が万事、です。 こうした気づきによって、日々描いているスケッチパースの次元が変わり上昇してゆきます。 これも、ひとつの表現なんですね。 by sketchpers | 2010-08-23 13:02
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