昨日、「ピカソ展」に行ってきました。
12月中旬まで、東京・六本木の国立新美術館とサントリー美術館で開催しています。
ここでは、「スケッチパース講座」としての”ピカソ”をお話いたしましょう。
素描画(実際に油絵の具でキャンバスに描く前に、エスキース(習作:デッサンまたは下書き)が、いくつか展示されていました。
近づいてようく見てみますと、「描き直して消した線」が薄く見えたり、「この線が基調になる線だ、と言わんばかりに何度も引いて濃くなった線」などが1枚の素描画のなかで展開されておりました。
素描画を描きながらおそらくピカソは、様々な創造を様々な角度から試し、発見し、1本の線を見つける”探究の旅”をしているように、私には感じました。
また、その1本の線が決まった時の「線の重み(意味・意義)」はとてつもなく果てしない広がりと次元の重層感となり、それが「情報」として私達に何かを示している(いわゆる”訴えている”)ことが、新ためて認識する事ができました。
ピカソの父は、ご存じの通り学校の美術の教師でした。
幼少時の息子・ピカソに与えるのはオモチャ代わりの美術道具でした。
なかなかピカソの本に載っている事は稀なのですが、ピカソ12才の時の鉛筆デッサン(男性の裸婦画)は見る者の息を止めるほどの「完成度」でした。
色々な方が評論されていますが、ピカソが生涯を通して創作した膨大な量の作品や、「青の時代」から始まり「赤(バラ)の時代」「キュビスム」「新古典主義」「オブジェ制作」など作風の精力的な変化は、ピカソが油絵の具を手に持つ前に培われてきた幼少期からの「デッサン」の量と質という下地(基礎:土台)があったればこそ、と思います。
ピカソは、「デッサン」を通して油絵という芸術の道の”ひとつの大きな価値観”を「表に現わしました」。これが、本来の「表現」の姿のひとつと思います。
ピカソとまではいかないにしても、私達は「デッサンの要素を併せ持つスケッチパース」を通して建築という芸術の道の”ひとつのご提案”を表現しているのではないだろうか、と考えます。
(”実験”というわけではありませんが、ご自身の好きな画家の絵を再度現時点でご覧になってみてください。また、このスケッチパース講座が終了された時点で再度ご覧になってみてください。今まで見えてこなかった(見えていなかった)”発見”が出てくると思います。)
ピカソ展の会場内では、「何だかよくわからない~。」といった感想(?)をよく耳にします。
今回も同様でした。鑑賞の仕方は人様々で自由ですから、「わからない」というのもある意味立派な鑑賞なのだと思います。(無理に”理屈(評論)”でわかったつもりの方が、ピカソには失礼なのかもしれません。)
では、「デッサン」をしたことのある人間だけが芸術を鑑賞できるのか?といえば、それは大きな誤解となります。「デッサン」の経験のない方でも、充分芸術を堪能され鑑賞されていらっしゃる方々はおります。
では一体何が違うのか(鑑賞として行き着くのか)?
「デッサン」も、あくまで”ある習慣”を身につける道具(練習)に過ぎないのです。
その”ある習慣”とは、「自身を内省する(自分を深く見る)客観性を養うこと」、なのです。
実は私達は、日々思い悩み苦しみ悲しみ、また喜び歌い舞いあがり、また怒り罵り傷つけ傷つけられ・・・・・、様々な人生の線引きをしています。
その度に、「こうだったのかな・・・」「ああだったのかな・・・」と反省という名の”自身を内省する客観性”を養いながら、自身のめざす処に向かっていっていると思うのです。
つまりは、「人生のデッサン」を日々行っている、と言えるでしょう。
だからこそ人生が豊かになり、その”共通項”をもって芸術を堪能し鑑賞にひたれるのだと思うのです。
自分の人生の線引きも、スケッチパースを描くことも、実は別々なものではないという認識の上に立ちますと、スケッチパースの意味・意義のいわんとするところがご理解いただけるものと思います。また、講座内で申し上げている内容の一言一言も、その色合いが様々に変化・多様化して皆さんご自身の中で発酵され熟成されてゆくことが、何よりも私共スケッチパース講座を設けました側にとって歓喜のことであります。
たかが1本の線、されど1本の線・・・・・・といったところでしょうか。
第1期生、第2期生の皆さん。スケッチパースを描く下地(内省する人生経験)は、皆さんは持っていらっしゃるわけです。この事を、お忘れなく!!!