手描きスケッチパース講師の「ススム日記」

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”役立ち”としての可能性

もう少し、「手書きスケッチパースの可能性」について考えてみたいと思います。

まあ、”可能性”などと大上段に構えるのではなく、「絵を描くこととは?」といったところから切り込んでみるとどういう視界が広がるか、といった方向で考えてみましょう。

さて、人はいつから”絵を描く”ようになったのでしょうか。
考古学的には、いわゆる「壁画」がそのようですね。
今で言うところの”絵”と比べますと稚拙なものではありますが、「役割」として見てみますと充分なものだったのでしょう。

その「役割」とは、”情報伝達”ではなかったかと思います。

言葉や頭の中での記憶といったものから、”正確に”情報を残し伝えることができる表現方法が、「壁画」という形になっていったのではないか、と推測します。

その「壁画」も、時代の発達・変遷によって”象形化(図形化)”してゆき、「文字(象形文字)」へと進化していったのではないか、とも思われます。

こうした歴史の流れの中で、「文字」や「数字」などによりより情報伝達手段が発達し、量や質なども同時に発展し、さらには科学技術の基となり現在の私達の日常を形作っているように思えます。

そうしますと、大きな目線で俯瞰してみますと、実は私達は日常的に(直接的ではないにしても)”絵を描いている行為”に似たことを行っていることにはならないだろうか、と少し強引なことを考えてしまいます。
現代での典型例でとても日常的なのは、メールですね。
文字情報の他に、「絵文字」などを駆使して楽しく情報のやりとりをしています。

文字そのものは、いわば「線の移動による形象」の”図形”です。
こうした視点に立てば、スケッチパースと何ら変わりはありません。
また、そこにあらゆる情報を載せ伝達する手段であることも、これまたスケッチパースと同じです。

一方、「壁画」が辿った別の道のひとつに「絵画芸術」があるのではないか、と思います。
単なる情報伝達としての”線”ではなく、そこに「感動(楽しみ)を呼ぶ線画」へと別の進化をした部分もあるのではないだろうか、と推測します。
このことは、まさに現代での例えば「メールでの絵文字」がひとつの表われではないでしょうか。

こうして考えてみますと、大きな意味でのスケッチパースとは情報の「伝達・正確・感動」であり、何千年も前から人類が行ってきた「基本中の基本の交流のひとつ」として考えられるのではないか、と思うのです。

スケッチパースの可能性・・・・・、それは単に「絵を描く」ことではない広がりあるものとして捉える事ができそうな気がします。
(とても身近な「図面」は、”図形”と”数字”による「絵図」だと私は考えています。)
そして、「手書き」であることがさらなる重要性(価値観)を引き出すものと思います。

現段階では、はっきりとしたスケッチパースの可能性がこうだとは申し上げられませんが、ぼんやりとではありますが何かこれからの時代(次代)にとってのヒントになるものが潜んでいるように感じてなりません。

「正確に、楽しく、交流」できる世界(世の中)作りに、少しでもこの手書きスケッチパースが役立ってくれるといいなあ、と思う今日この頃です。
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by sketchpers | 2010-01-28 18:24

スケッチパースの本質と可能性

講座の受講生から送られてきます「提出課題スケッチパース」の添削をするたびに、いつも考えさせられることがあります。

「スケッチパースとは何ぞや?」

まがりなりにも、自分の身に付けた技術などをお渡ししている立場ではありますが、今自分のスケッチパースが”完成型”とは思っておりません。
むしろ、完成型といったものはなく、常に「現在進行形」であると思って取り組んでおります。

受講生の皆さんが描かれる”純粋なスケッチパース”を見ながら、私自信の今後のスケッチパースがどのような方法性を持ちながら「進行形」としてさらに発展してゆけるか、悩みでもあり楽しみでもあるところです。

先日、ある関係の方々を前にして「手書きスケッチパース」をサラサラっと描いてみました。
ある時には、対面にて逆さまに(相手側に向かって)してスケッチパースを描いたりもしました。

さすがに、やはりインパクトは大きく驚きと感動を持っていただきました。

しかしながら、正直私の中では何がしか寂しい感じが頭の片隅にあるのが否めませんでした。
それは、なにかスケッチパースが「物見せ的」にしてしまったようで、本来のスケッチパースの本質を外したデモンストレーションにしかすぎなかったのではないか?、といった反省です。

”速い・味がある・わかりやすい”、まあ吉野家の牛丼ではありませんがそんなキャッチコピーが付きそうな「手書きスケッチパース」ですが、やはり本質は”意思を伝える道具(表現)”であること、またスケッチパースが全てを網羅できるものではなく数あるコミニュケーションツールのひとつであること、ここを外しては「手書きスケッチパース」は成り立たない、改めてそう思いました。

どこまでこの「手書きスケッチパース」が広がりを持ち高みに近づくことができるのか、今後はその可能性を導きだしていきたいと思います。

その時には、「スーパースケッチパース」や「バージョン・2」をまた講座として皆さんにご紹介できるものと考えております。

その際には、また宜しくお願いいたします、ね!!!
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by sketchpers | 2010-01-19 12:38

「手書き」のアナログは古い?

さて、そろそろ「スケッチパース」についての話に戻しましょう。

この「手書きスケッチパース」、何故皆さんは受講しこの技術を習得したいと思われましたか?
なかなか唐突な質問ですが、いかがでしょうか。

(こういった分け方には疑問はあるのですが・・・)「CGによるパース」は”デジタル”としますと、「手書きスケッチパース」はまさに”アナログ”ですね。
新素材や新技術の発達・発展に伴って、「時間短縮」~「簡単・便利」~「高速・大容量処理」~「本格化」といった経緯をたどってきた”デジタル”分野ですが、この「道具」はそれはそれとして大変重宝なものです。
今や、私達の日常生活には必要不可欠であり、大きなライフラインのひとつとして存在していることは否めません。

その”デジタル”、実は「指で数える」といった意味がデジタルという言葉の意味のひとつである、と申し上げたらどういう印象をお持ちになりますでしょうか?
指で数字を数えて情報のやり取りや処理を行っていた遥か昔の時代のことです。
言葉(言語)での情報のやり取りや処理の他に、数字的な何かが必要になってきた、つまりは社会システムが進歩してきた故の「指で数える」といった発想だったのではないか、と推測します。

様々な”デジタル技術”の進歩の基は、”とてもアナログ的発想”が原点としてあるようです。
「こんなものがあったらいいなあ。」
「こうなったら便利だろうなあ。」
「こういったものがほしいなあ。」
まあ、人間の欲はつきないものでそのために大きな”ツケ”を作ってしまいましたが、「向上」という点においての進歩は、人間の持つ他の生き物にはない特徴なのでしょう。
その向上における発想は、まさに”アナログ的”に他なりません。
これは、「指をおって数える」ようなことで発想できる代物ではないのです。

つまりは、”アナログ”として発想し”デジタル”として計算・処理し形にする・・・・・、時代の進歩・発展は常にこの繰り返しではなかったか、と思うのです。
このことは、”アナログ”と”デジタル”が相反するものではなく、両輪としてひとつの時代を運んでいることなのではないでしょうか。
私は、そう考えます。

ですから、パースの話に戻して改めて考えてみますと、「手書きスケッチパース」も必要であり「CGパース」も必要なのです。
しかしながら、アナログ的に「手書き」をすることによって得られる発想はとても大切であり、この発想はデジタル行為ではなかなか出来ない芸当です。
一方、「手書き」にはやはり限界があり、デジタルの力(処理能力)には敵いません。

こういったことを押さえた上で、「手書きスケッチパース」の講座に取り組んでいただけますと、大きな視野のもとでひとつの技術を習得することができ、その技術がきっかけになって他のことへの理解が広がる。
そういう願いがあります。

デジタル化が進めば進むほどに、アナログへの欲求が出てくるのもうなずける話ですね。
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by sketchpers | 2010-01-13 06:57

今年はさらによろしくお願いいたします。

新年あけましておめでとうございます。
本年も、皆さまと共にこの「手書きスケッチパース講座」を邁進させてまいりたいと存じます。
何とぞ宜しくお願い申し上げます。

さて、あらためまして新年を迎え、皆さんはいかがでしょうか?
今年の目標など、立てましたでしょうか?

私はと申しますと・・・・・・、ん~改まってこれをといったことはありませんでした。
日々淡々と、と申しましょうかそういったわりと静かな面持ちです。

「このような時代だから、奇をてらって・・・。」といったことも考えず、だからといって「このままの現状維持」としての惰性でもなく、日々の働くべきことを誠意を持って行わせていただくこと、これの軸をぶらさぬようにしっかりと今年も歩んでまいりたい、そう思っております。

「手書きスケッチパース講座」も2年目が始まっており、受講生の皆さんも”修了者”が増えていっています。

修了された方々が、現在どのような実践の場でこの手書きスケッチパースを役立てていらっしゃるかはわかりませんが、それぞれご自身なりのスケッチパースの道を歩まれているものと願っております。

昨年以上に厳しさを増すであろう時代の形相に、果たしてどのように対策を打ち出し行動すればよいものか、全くの不透明な時代と言われていますね。
このようなことをまわり中が言い出すものですから、すっかり何もかもが意気消沈している感があります。

確かに、行く末が見えないことはその通りでしょう。
だから、不安だったり心配だったりするわけですね。
しかし、その不安や心配はいったいどこからくるのでしょうか?

「終わりの始まり」という言葉があります。
今、私達ははっきりとはわかりませんが何か大きな”大変革”の時期が来ていることを、意識・無意識に拘わらず感じていることでしょう。
その大変革は一体どういうものなのか、どうなってゆくのかがわからないから不安になり心配にもなる。
「どうやって生きてゆけばいいのか・・・。果たして生きてゆけるのか?」、そんな不安が世の中を駆け巡っているようです。

「終わりの始まり」、もう一度この言葉の意味を考えてみましょう。
私達の日常を司ってきたあらゆるシステム(価値観や常識や生き方そのものまで)は終焉を迎え、今新たなシステムが芽生えようとしている、つまりは大きな大きな地球時間という宇宙サイクルの中で、ひとつの大きな節目を私達は迎えている、という視点で見つめてみたらいかがでしょうか。

しかしながら、「終わり」を締めくくるには”発つ鳥、跡をにごさず”のごとく、一切をきれいにしてからでは次にゆくことはどうやらできないような感じです。
つまりは、「膿出し」ですね。しっかりと、個人から国そして地球まできちんと膿出しをしおえて始めて新しい事が始まるのではないかと思うんです。

厳しい厳しいといっても、裏を返せば新たな時代への膿出しのこと。
むやみに不安がることもなく心配することもなく、”素直に”膿出しを受け入れること、これがとても大切なキーワードのように思えます。
そうは言っても、言うは易し行うは難しでなかなか困惑することもあるでしょうね。
そこで重要なことは、「横のつながり」なのではないかと思うんです。
この講座、タイトルの一番前には「プロのための・・・」とあります。
つまりは同業者ということですよね。
「横のつながり」は「同業者のつながり」として、私達は今までの価値観(競争原理や営利主義など)をさらりと捨てて、”次代を創る新たな友”として共同してゆく「横のつながり」としての価値観を基にこれからは共に今の時代を歩んでゆくことが重要なのではないか、と思います。

「膿出し」は辛いです。
しかし、この時代の大変革の大波に乗り大峠を越えるには一人の力ではどうすることもできないでしょう。
だからこその「横のつながり」なんだろうと思うんです。

この大峠、皆と共に越えることに意義があるように感じます。
そして、そこに次代の新しい価値観(生き方)があるように感じます。
この「軸」を基に、今年一年気張ってまいりたいと思います。

このように考え思えるようになったのも、スケッチパースのお陰かなあ・・・。
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by sketchpers | 2010-01-05 12:14