手描きスケッチパース講師の「ススム日記」

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「豊かさ」をみる

残暑が厳しく、なかなか”秋の気配”を感じるようにはなりませんね。
しかし、身体は「真夏の疲れ」がジワ~っと出てくる時期ではありませんか?

秋の気配・・・・・。
と言って、皆さんはどのようなイメージをされますか?

様々な物や事などをイメージされるでしょう。
この「気配」。私達日本人にとっては、とても豊かな感性に乗っ取った感覚(表現)ではないか、と思います。

虫の声を聞いては、季節を感じ想いにふけることができます。

風をただの気象現象としてではなく、時には”ささやき”として、時には”ともだち”としてなど、(それを擬人化と呼ぶのかもしれませんが・・・)とても身近なものとして「普通」に捉えていますね。

雷に於いては、「神鳴り」といって神様の何かの啓示として捉える精神性があります。


また「人の気配」として、物体的なのか体温的なのか動作的なのか何がしかの人の存在を感じる時、「人の気配」として敏感に反応しますよね。

よく言われていますが、文化の写し鏡である「言葉」がとりわけ豊かなこの日本。
豊かな感性なくしては、上記のような趣ある言葉は生まれてはきません。
感じたことを、言葉にして表現できるということの素晴らしさを、特に現代に生きる私達は意識をして自覚しなくてはいけないのではないだろうか、と考えます。

「明日は、35度の猛暑となるでしょう。」

こうした天気予報の言葉の表現を聞きますと、何故か虚しさをおぼえます。
35度だから暑い、そう思ってしまう。
そして、やがては気温の”数字(数値)”によって判断してしまい、自分の肌身で感じることを放棄してしまうようになってきてしまう・・・。

そうなってしまっては、「気配」など死語の感覚になってしまいそうで、とても悲しく感じますね。

猛暑の中にも、湿度が比較的低いカラッとした日だってあるでしょうし、曇っていてもじんわり暑い日だってあるわけです。
”ゲリラ豪雨”の去った後には、涼しくなる場合や反って蒸し暑くなることだってあります。
そのような「大自然の営み」と付き合い・受け入れ・共に生命を育むには、その時々に感じたことを素直に表現する心の余裕(豊かさ)が必要なのでしょう。

「暑いな~。汗びっしょりだ。今日は”愛飲日(ビールが美味しく飲める日)”だ!!!」
「寝苦しい夜だ。虫の鳴き声も、いささか寝不足気味のように聞こえる。今夜は熱帯夜じゃなく”音虫多慰夜(ねむたいや)”だなあ~。」
こんなの、楽しいと思いませんか?

このような日々の感性・感覚が、ひょっとしたらスケッチパースの表現の手助けになるのかもしれません。
「豊かに生きる(生かされる)」ことは、目に見えない物事を表現できることなのかもしれません。
スケッチパースでも言葉でも、何かを表現し伝え想いや感性を共有できることは、とても素晴らしいことではないでしょうか。

あ~、それにしてもやっぱり「暑い~っ・・・!」ですよね。
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by sketchpers | 2010-08-30 19:46

「食」の素にあるもの

もう少し、「食」について突っ込んで考えてみたいと思います。

私達が、日々三度三度(中には1日4~5食という方もいらっしゃるかと・・・)行っている”食事”。
元々は、「1日2食」だったらしいですね。そんな話を聞いたことがあります。

「え~っ?1日2食?無理ーーー!」、なんて思う方々も多いことでしょう。
ご存じの方も多いでしょうが、現代の作られる食物が持つ”栄養素”は、3~40年前の食物と比べますととても栄養素が少なくなっているということらしく、中には栄養素が2分の1なんていうものもあるそうです。

栄養豊富な作物を摂取すれば、人は1日2食で充分こと足りるようにできているのでしょうね。

また、カロリー摂取過多以上に食事の”量”も実は大変大切なことのようです。
内臓にとって、食物を消化・吸収し肉体のエネルギーとして変換し命を維持するといった「サイクル(循環)」は、”食事から次の食事まで12時間かかる”のだそうです。
朝7時に食事をしたら、夜の食事も7時、といったサイクルが内臓にとってはとても良いのだそうです。
逆に言えば、それ以上の食事行為が内臓への負荷をかけていることになる、ということですね。

そういった意味において、1日2食は理に適っていると言えるようです。

別な観点では、私達日本人の主食である「お米」。
昔、”白米”で食べていたのは貴族が主で、一般は”玄米”を食していました。

現代では、「玄米を食べています。」とよく聞くようになりましたが、白米の食べ方に慣れている現代人が玄米を食べても、その栄養素は100%活かされていないようです。
玄米を”まともに”食べるには、丈夫な歯と頑丈な顎が必要なのです。
どうゆうことかと申しますと、玄米を食べるには「噛む回数が一口50回必要」だということなんですね。

50回噛むことにより、充分で豊富な唾液を含んで噛みつぶされた玄米は、消化分解吸収をする内臓にとっては負荷がなくスムーズにそのハタラキを行えるのだそうです。
また、50回噛むことにより「満腹中枢神経」が働き、暴食することなく食事を終えることができるということです。

こうして見てゆきますと、「何故に私達は食事をするのか?」という根本的な疑問が湧きあがります。

(ここからは、私自身の勝手な独断と偏見による個人的なツブヤキですが・・・)現代人の食意識は、「肉体のための食事」に捉われすぎていて大切なものが視野に入っていないように思えてなりません。

「生命」という遠大で尊く気高いものでさえ、「食」の前では単なる「肉体生命」と陥り、肉体にとっての食事といった観点を基点として作物を捉え作っているように見えます。

言い換えますと、先に形があって中身は後付けかもしくは何もない、といったことです。

ここに警鐘を鳴らし、「食育」といった概念が生まれ実践している方々がいらっしゃいますが、まだまだ一般的な”常識”には到達していないのが現状のようです。

こうした現代の「食の構図」は、実は私達のモノ作りの構図に大変酷似しているように思えてなりません。

人間側での勝手気ままな“一方的論理”によってモノ作りを進めた結果、今まさに地球は”病い”の真っ只中です。
同時に、私達人間も肉体的病いに侵され、精神的にも侵され始めています。

これは、結果論ではなく道理でしょう。そう思います。
私達人間が、自ら病いを作り出し自らを侵した。これが道理でなくて一体何なのでしょうか?

健全で正しい食事ができてこその生命だと思います。
健全な精神が、健全な肉体によって形に現わされ物事が実現し、健全な世界が建ち上がる・・・。
この行動を支えるのが、健全な食事なんですね。
健全な精神が、健全な食事を欲し健全な肉体を形作り維持してゆく・・・。
これが、元々の正しいサイクル(循環)ではなかったのか、と思います。

「手書きスケッチパース」は、恐ろしい事にこの健全さがはっきりと画面に出てしまいます。

爽快な気分の線、悩んでいる線、心ここにあらずの線、何も提案するものもなくとにかく描いてみた線、熱のこもった線、信頼を得て描いた線・・・・・、などなど。
意識・無意識に拘わらず、はっきりと表現されてしまいます。

そういった意味では、いつでも精神が健全であり肉体も健全である状態でスケッチパースを描きたいものです。

そのひとつのヒントが、「食を省みる」ことなんですね。
それも、精神から肉体そして精神へといった大きなサイクル(循環)と、肉体の中での小サイクル(循環)を省みることだと思います。

”省みる”ということは、白米から玄米に変えることではなく、1日2食に食事の回数を変えることでもありません。
形を変えることではなく、「本来の何かにいかに気づくことができるのか?」が大切なことのように思えるのです。

一事が万事、です。

こうした気づきによって、日々描いているスケッチパースの次元が変わり上昇してゆきます。
これも、ひとつの表現なんですね。
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by sketchpers | 2010-08-23 13:02

「食」とモノ作り

暑い日が続きますねえ。
皆さん、お盆休みでしっかり休養できましたでしょうか?
残暑も厳しいようですので、しっかり食べてしっかり睡眠、これでこの夏を乗り越えましょう!

さて、しばらくこの「ススム日記」をご無沙汰しておりまして申し訳ございません。
この一週間、京都府は綾部にて大工の真似ごとをしていました。
お陰さまで熱中症にはならずに作業をすることができ、作業の一区切りをつけて帰ってきました。

室内のリフォームの作業でしたので、扇風機は回してあったものの室温は37℃くらいになっていました。
実際の作業上での疲労よりも、酷暑による体力の消耗の方がやはり思いのほか激しく、ばてずに作業を日々続けてゆくには「食」の在り方がいかに大切かを思い知らされました。

「しっかり食べること」と簡単に言いますが、自分の性格や体質とを合わせ見てみて”しっかり”の定義を自分なりに決めコントロールしてゆくことがとても重要なのだなあと思いました。

よく噛んで唾液を充分分泌させながら食べること。
栄養バランスはもちろんのことですが、実際に”力が出る”のは肉食よりも大豆や根のもの(長いもやゴボウといったものなど)を食べることの方が、日本人には体質的に良いということ。
栄養バランスといったことも、食物を”成分”として捉えてのバランスのみならず、「陰の食物・陽の食物」といったバランスも大事であること、・・・・・等等。

元々自然界に存在していたバランスに乗っ取った「食」の在り方があったわけですから、そこから逸脱してしまうと体調を崩したり病気になったりするということなのだろうなあ、と考えさせられました。(病いは、自らが作り出しているように感じてなりません。)

また今年の熱中症対策で特に言われているのが「塩(塩分)」であり、ご存じの通り何と言っても肉体機能を円滑にしてくれる影の立役者であり、とても大切なものですよね。

しかしながらこの「塩(塩分)」、取りすぎてもいけない代物でなかなか難しいですね。

塩分の吸収は、塩そのものをとる(食べる)ことよりは、「梅干し」とか「味噌汁」などのような一段階手間をかけた形でとることの方が、身体にとってはいいようです。

こうしてみますと、いかに現代の食生活が”自然の持つバランス”から遠ざかって勝手気ままに我儘なりに食べているかがわかりますねえ。
恥ずかしい事です。・・・

「食の乱れ」は精神にも影響し、健全さを失う傾向が強くなってくることは様々な方々がその警鐘を訴えて随分になります。

我々モノ作りに携わる者も、「食の乱れ」は「環境(建物・空間)の乱れ」と肝に銘じて、日々大切に食事を頂きながら健全なご提案をお客様にお渡ししたいものだ、と思っています。
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by sketchpers | 2010-08-18 12:32

「介護社会」について(3)

100歳以上のご高齢者の身元がはっきりしない、といったニュースが最近連日のように報道され、その人数も増えているといった状況ですね。

核家族化、家族の絆、孤独死、高齢者単身世帯、自治体の体制・・・・・などなど、問題は様々あるでしょう。


「長寿」が、家族や社会の”重荷”になる、そんな世の中になってしまったんでしょうか・・・。
(これとは対照的に、自分の子供(赤ん坊や幼児)が邪魔で”いらなくなった”モノ同然として育児放棄してしまう、といった事件もありましたね。)

一言で「介護」と言いましても、何も”ご高齢者”ばかりではありません。

どうしても、高齢社会としての”多数派”でありますご高齢者にスポットが当たってしまいがちですが、「介護社会」の中には”病気などにより障害を持つ中高年の方々や子供達”も、実際に存在し生活をしています。
いわゆる、「障害者」と言われている方々です。

人口比率で考えますと、やはり”全くの少数”ではありますが、しかし障害者としての「障害事態」は高齢者以上に様々であり且つ(ある意味では)本人独自のものであるわけです。
故に、対応が複雑であり過酷なものとなります。

中高年の場合は、生活習慣病からくる「脳梗塞などによる麻痺(四肢麻痺や片麻痺など)」によって介護が必要になったケースが多いです。

子供の場合には、「難病」と呼ばれる病気の発症によって介護が必要になるケースが多いです。

「障害」と言いましても、その状態は幅広く、寝たきりの状態から普通に自分で社会活動や生活をしている状態まで千差万別です。
四肢麻痺によって寝たきりとなり声も出ないといった方もいらっしゃれば、パラリンピックで金メダルを何個も取る方もいらっしゃるといった具合で、その間に存在いたします方々の状態は数限りないといった状態です。

もうすぐ、チャリティー番組の「愛は地球を救う24時間テレビ」が始まりますが、障害者に対し主にスポットをあてて「障害への理解と認識の拡大」を狙いに努めているようですが、番組事体をいざ見ればどうも疑問が多々残るばかりのないように私自身は感じてなりません。

障害を持つ方々は、自分のことを「弱者」などとは一切思っていません。

この「弱者」というレッテルも、いわば”健常者である一般人”としての生活者の発想からきています。
これも、実は認識のない「差別」の証しであると私は思っております。

障害を持つ方々は、健常者からのこの「差別感覚」にとても敏感でありナイーブであります。
自分の置かれた身の上を(葛藤はあるものの)受け入れ、そこからひとつひとつ自分でできることを探しながら社会参加をし、”普通”に生活することを望み挑戦し実践しています。
そこに、「かわいそう」「お気の毒に・・・」「大変なことだ」「障害を克服する姿に感動をした」「生きる力をもらった」・・・、などという”感想”は障害を持つ方々にとってはもっての他であり迷惑な話でもありまさに「勝手な差別」のなにものでもないのです。

私も含め健常者は、「区別」と「差別」の違いをきちんと認識していないように感じます。
(余談ではありますが、「格差」や「平等」といった認識に対しても、とても気をつけなくてはいけない”概念”だと思います。)

私は男性、あなたは女性。これは「区別」ですね。
私の身長は170㎝、あなたは195㎝。これも「区別」です。
私の持病は、頭痛です。あなたは今骨折で入院しています。「区別」です。

私は男性、だから〇〇であり、あなたは女性だから〇〇でなくてはいけない。これは「差別」。
身長170㎝の私は男子バレーボールには向かない。195㎝の身長はないといけない。これも、「差別」。
私の頭痛と比べたら、あなたは骨折して入院しているので生活も大変でしょう、かわいそうだ。実はこれも「差別」です。

”比較”社会のもたらした代償は、「差別」を生みました。

「差別」ではなく「区別」はあるんです。
役割の違いやハタラキの違いがあるからこそ、その人が持っている能力が活きてくるんですね。
また、「格差」ではなく「格の違い」はあるんです。
品格、風格や家庭の格など、これは”個性”の一種と捉えていただければわかりやすいのではないでしょうか。

しかし、この「区別」に”比較”というフィルターを通してしまうことで、「差別」が生まれてしまっているようです。
「差別があるから平等にしろ!」
「格差があるから平等にしろ!」
この言葉が、どれだけ「差別の言葉」となっているのか・・・。

元々平等に与えられている命と役割・ハタラキは、それを発揮するための最高の環境のもとに今そこに存在している、と思います。
故に、何にも比較せず区別すらせず、素直に”自分を受け入れる”ことで「差」を「取る」ことができるのだと思います。
(「差を取る」=「「差取り」=「「サトリ」=「悟り」なんですね。)

高齢者も障害者もそして(何らかの悩みや病気を抱えているであろう)健常者も、「比較された差」という垣根を取ることで、次代の社会の在り方を模索できうるものだと考えます。

「高齢社会」や「介護社会」そして見て見ぬふりをしてきた「障害者の方々」への正しい認識が、何か大切なことを気づかせてくれるように感じてなりません。

そうしたベースから、今後の建物(住宅や公共施設など)をどう形作ってゆくものか?を考えてもよいのではないか、と思っています。
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by sketchpers | 2010-08-07 12:27