手描きスケッチパース講師の「ススム日記」

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うれしい話

先日、ある受講生の方からこのようなお問い合わせをいただきました。

「2回ほど講座を受け課題を出した後、忙しくて勉強する時間がなく手が止まり今になってしまいました。改めて続きを続行したいのですが可能でしょうか?」、という内容のものでした。

このお問い合わせ(メールでしたが)を拝見した時に、とてもうれしくなりました。

「通信講座」のメリット・デメリットは、事務局サイドでも開催当初より様々に考えその都度対応をさせていただきました。
しかしながら、”お互いに顔が見えているようで見えない”といった特徴の「通信講座」ゆえに、また受講いただいております方々の様々なその時その時の諸事情によって、受講の進捗がうまくいかない・・・、といったことはどうしてもあることですね。

事務局サイドでは、皆さんの諸事情は諸事情として受け止めております。
同じプロとしてこの業界にてお仕事をされているわけですから、充分理解をしているつもりです。

ですから、せっかくなにがしかの縁によってこの講座を受講されたわけですので、時間はかかっても一歩づつ受講をこなしていただきながら、最終的に「終了証」を手にしていただきたい、そう事務局サイドはいつも願っております。

「手が止まってしまいだいぶ時間があいてしまったが、また受講を再開したい・・・。」

オッケイです!!!
大歓迎です!!!「お待ちしておりました!」です。

一緒にまた描きましょう。描いていきましょう。
事務局サイドも、バックアップいたします。
描ける時間が出てきましたら、また始めましょう。

その途中でまた忙しくなったら、それまでに勉強して培ったスケッチパースを実践のお仕事の場で実際に描いて使ってみてください。
そういうやり方でスケッチパースに慣れてゆきながら、また時間がとれてきましたら受講を進めてステップアップしてゆく・・・、という受講スタイルもありだと思います。

いつでも「手書きスケッチパース講座」の門戸は開かれています。
共に、歩んでいきましょう!
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by sketchpers | 2010-09-25 10:38

自分さえよければ・・・

暑い暑いと日々過ごしていますが、ここのところ暑いことは暑いのですが日陰に入りますと急に涼しい(というよりもちょっと寒いかな?)感じになってきたような気がいたします。
また、吹く風の体感温度も冷たさを感じ、「やはり秋は近付いているのかなあ。」と思う今日この頃です。

しかしながら、極端に暑かったり極端に雨がふったりと、自然の荒らぶりは凄まじいものです。

豪雨によって様々な被害を受けられた方々や、酷暑によって体調を崩されたり残念ながら命を落とされた方々もいらっしゃる。また、私達の命の糧である作物にも多大な影響が出ているのは周知のことでしょう。

日本ばかりではなく世界各地に視野を広げますと、その被害の状態が日本のそれよりも比較にならないほどに大きく深刻です。
また、二次的にライフラインの復旧や感染問題や今後の生活基盤への不安など、様々な問題がこれも洪水の如く浮上してきています。

こうした現象は、巡り巡って直接的に経済への影響にもなり、当然ながら一国のみの被害では済まない話となってきています。

天象や気象という天災であると、そう簡単には片付けられないように思えてなりません。
ニュースでこんなことを言っていました。
「豪雨により、ダムが許容量に達しそうなので放水をしたがために、河川の氾濫や雨水排水施設にも影響が出て、浸水被害を助長させた。」ということです。

大切なライフラインであります道路の決壊にしましても、人的な要素が関わっているように思えるものも少なくないように思えます。

このような被害の報道を見るたびに、「どうしてこのような所にこのようなもの(公共物や住宅や施設など)を作ってしまったのか?」と不可思議さとむなしさを感じる時があります。

私の住まいは”(通商)田園都市”と呼ばれ、この街に住み始めた20年前には田畑や緑も豊かにあり、都市の持つ便利さと自然環境がほどよいバランスでありました。
やがて、人気沿線の名のもとに宅地造成が進み丘や田畑が宅地化され始め、今では「田畑や緑を探す」といった言い方が適しているほどに”荒らされて”しまいました。

また、この辺りは田園でもありながら山谷の起伏もあり、宅地造成後に現れる姿は「見え掛かり上1階がコンクリートの基礎を兼ねた駐車場で、2階に相当する部分がいわゆるGL地盤となり建物が建つ」といったものです。

こういったものが道路に連なり”緑色から灰色”へと景色が変わる様を見る度に、胸が痛くなり悲しくなります。

”新築”を決して否定しているわけではありません。
私が思うのは、「その前に、考えるべき物事があるだろう。」ということなんです。

豪雨によって、床上浸水の被害に遭い水道もストップしてしまったというご家庭の奥さんがニュースの取材に応じて答えた一言が脳裏に響きました。
彼女は、「水道が使えないから、床の泥の処理も何も出来ない。本当に水の有り難さがわかった。」とおっしゃっていました。

”有り難さ”・・・。「なかなかないこと」ということなんですね、この言葉の意味は。

私達の日常にある、ありとあらゆるものは実は”有り難い”ことなのではないのでしょうか?
目を閉じ眠り、目を開けたら朝を迎え昨日と変わりない光景が目に映る・・・。
この”あたりまえ”は、本当はとんでもない”有り難い”ことであり、それは今年の各地の天象・気象による災害によって難なく一変する、ということで実証されているように思えます。

私自身、今まで”有り難く”地盤に穴を掘らせていただき基礎を作り、”有り難く”木材を使わせていただき建て方をし、”有り難く”あらゆる仕上げの材料によって建物を作る、といった姿勢でいたであろうか・・・、と反省いたします。
そればかりか、図面に書く一本の線によって何がしかの自然環境への負荷となることを意識し、”有り難く”一本の線を引いていたか・・・、また、スケッチパースにしても同様、表現する一本の線に”有り難さ”を持って描いていたか・・・。

「自分さえよければそれでよい。」、このことに意識・無意識に拘わらずどっぷりと浸りきっている現代の社会システムに、そろそろ気づき改めるよい時期にきているように思えてなりません。

スケッチパースも表現体のひとつであり、図面でもあり完成体でもあります。
そういった意味では、とても重要な責任ある表現体でもあると考えます。

「描いて納めてしまえばそれでよい。」「作って引き渡してしまえばそれでよい。」では、もう通用しないことくらいは、すでに皆さんはご存じのことですね。
(構造偽装や手抜き工事などといった問題解決を越えて)作り手側の倫理と言いましょうか心構えと言いましょうか、どうやら一段ステップアップしたものが作り手側に要求されはじめているように思えます。

いにしえの時から現代まで、私達人間がやってきたことをここで全てにおいて「清算」する、そういった大事な時期に私達は直面しているようです。
それゆえに、充分な考慮と注意をもってことにあたらねばならないことを、改めて肝に銘じる今日この頃です。
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by sketchpers | 2010-09-11 13:04

「豊かさ」はみえる?

暑い夏には、何といっても「風鈴」「かき氷」「海水浴」(まあクーラーもありますが・・・)などといった身体を冷やすものもありますが、”ヒエッ!”と言えば何と言っても「怪談話し」ですね。

先日、テレビで「心霊写真やビデオに写った幽霊」という番組を久々に見て、「そういえば夏には、怪談ものや幽霊ものってあったよなあ。」などと思いだしたものです。

まあ内容の事は別にして、”目にみえないもの”の存在には近代社会から現代社会にかけて、随分と論議されているようですね。

特に、(自称・他称色々ありますが・・・)霊能者と呼ばれる方々と科学者とのバトルは、依然平行線のまま曖昧にいつも終わり、結局は両者が両者持論のまま何も変わらずに同じ事を勝手に言いあい、相も変わらず同じ事を繰り返しているようです。
見ていておもしろいやら、あきれるやら・・・。

”目にみえないもの”は、何も心霊や幽霊ばかりではありませんよね。

日常よく私達が使っている「気持ち」とか「心」とか「愛情」など、こういった類のものも”目にみえないもの”です。
また、「イメージ」や「アイデア」もフッと湧き出ている時は、”目にみえないもの”ですよね。
(要は、形になってみることができない、というだけのことなんですがねえ・・・。)

前回の「ススム日記」で、「目にみえないものを表現できることは、豊かなことだ。」と書きました。
目にみえないものを表現できるということは、目にみえないものを”受け入れている”という証拠なのだと考えます。
目にみえないものの存在を、あらゆる全ての存在を”認め、受け入れている”からこそ、目に見えているものも目にみえないものも区別なく(差別なく)普通に捉えているんだろうと思います。

科学によってナノレベルの素粒子を見ることができるようになったことも、「やっと、あなたの気持がわかった。」と納得し心が交うことも、愛情に満たされて心地よくなることも、そしてスケッチパースでイメージやアイデアを表現し相手に伝えることも、これ全ては「(形があるないに拘わらず)みえないものがみえた」という点で同じ事なのではないでしょうか?

今まで見えていなかった(見ることができなかった)ことが、「観えるようになる」ことは実は日常様々な場面場面で沢山あるしその都度体験・体感してるんですね。

ただし、私達人間が”見えている(見ている)”ものは、未だ見えていないものも含めた全存在のほんのわずかな末端である、という事を肝に銘じて謙虚に”観てゆきたい”ものだと思います。

ご存じの方もいらっしゃると思いますが、3人の盲人が各々「象のしっぽ」「象の足」「象の鼻」と一人一か所を触り「これこそ象の姿である。」と各々が主張しあい意見をゆずらない、といった逸話があります。

象の全体が「観えてる」ものにしてみればまことに馬鹿馬鹿しい話ではありますが、ふと省みますと決して笑える話ではないですよね。逆にゾッとする話で、我が身に置き換えてみたりします・・・。

”目にみえないもの”の中に、「感覚(センス)」があります。
この「感覚(センス)」という意味合いを、随分と私達は狭めてしまったのではないか、と考えます。

「気持ち」や「心」といったものと同意語として、「感覚(センス)」があると思っています。
ですから、「自分にはセンスがない。」とか「センスが悪い。」などということは、「自分は気持や心がない。」とか「私の気持ちや心は悪いんです。」と言っていることと一緒ではないかと思うんですね。

どなたにでも、持って生まれた「感覚(センス)」があり、育んだ「感覚(センス)」があるわけです。そこに、”良し・悪し”はありません。
あるとすれば、それは単に「その時期・時代の多数派に乗っ取っているか?」だけのことだと考えます。

自分にとって、目にみえるものも目にみえないものも大切な存在です。
「感覚(センス)」を大切にすることは、自身を大切にすることだと私は思っています。

そうした心構えで、”目にみえるものと目にみえないものとの橋渡しである表現”のひとつでありますスケッチパースに今後も向き合っていこうと思っております。
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by sketchpers | 2010-09-04 12:36